本文へジャンプ2012年 3月号

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消費増税で思考停止に陥った野田政権

国から降ってくる資金や仕事を口をあけて待っているあまたの企業や団体がある。
  そ
こから票とカネをもらうために省庁と癒着し、予算をぶんどって、国民の血税を流し込む政治家がいる。
  そうした企業や団体や政治家に幅と睨みをきかせ権勢を誇示するために全国民からできるだけ多くの税金をかき集めたい財務省がある。 
  その財務省では、消費税という、官僚組織の「安心財源」、国民の「不安財源」を勝ち取った事務次官には、省の歴史に名前を残すという意味での、勝利の勲章が与えられる。もちろん、財務省というコップの中の栄光だ。
  そして、官僚は国家の機密情報を独占し、自分たちに都合のいい「ご説明」で政治家や学者・文化人を舞い上げ、操って強力な代弁者、広報係となし、国民の目をくらませている間に、生涯不安のない天下り天国をつくりあげる。
 財務省の代弁者の代表格である与謝野馨氏は「100年に一度症候群」の自公・麻生政権と、「ギリシャ危機症候群」の民主・菅政権で、消費増税への旗振り役をもののみごとにこなしたといえる。
  その証拠に、菅氏のあとを継ぎ、勝栄二郎財務事務次官に洗脳されつくした野田首相は、金融市場の恐怖、すなわちヘッジファンドの空売り、国債暴落の悪夢にさいなまれながら、未曾有の消費不況の中、奈落への坂道を勢いよく転がるように突っ走ろうとしている。
  バカな話ではないか。肥満の人からも、痩せ細った人からも、肉をそぎ落とそうとしている。痩せ細った人は骨と皮だけになって死に至り、肥満の人はこれしきでは肥満を解消できないまま贅沢に明け暮れて、死によってすべてを無くす恐怖から逃れるべく気を紛らわせる。
  お金持ちからは所得税でドンと税金をとってあげるのが親切というものだ。人はいずれ天に召される。冥途にカネはいらない。一刻も早くカネの呪縛から解き放ち、心の自由を取り戻してあげることだ。
  そもそも、890兆円とか、カウントの仕方によっては1000兆円とかいわれる国の借金を減らそうと思ったら、資産を売るしかないではないか。企業でも家庭でも、収入が少なくて借金を返せなくなれば、不動産や証券を売るだろう。
  日本国の資産は650兆円とも700兆円ともいわれるが、天下りの受け皿である独立行政法人や関連団体、企業の資産はそのうち200〜300兆円はあるという。
  ほんとうに国がもたないのなら、これらの組織を売却して民営化したり、不動産や証券を売りさえすれば、消費増税で焼け石に水のようなことをやらなくても財政健全化はあっという間に進む計算になる。
  思えば竹下内閣の1988年に3%の消費税が導入されたが、その後の国内消費は悪化する一方だ。
  橋本内閣で5%に引き上げられると、不景気風の勢いは強まり、増税効果は1年で終わって財政の悪化に歯止めがかからなくなった。
  米国のバブル消費や中国など新興国の経済成長により、大手輸出企業がグローバル経済の恩恵にあずかってきたことはあっても、国内で商売をしている者は、儲けが減少しているのに消費税だけは赤字でも払わねばならない。
  このために、生活苦からうつ病に陥り、自殺する中小零細企業の経営者は後を絶たない。
  デフレで賃金や売り上げが低下し、どうやってこれから生きて行こうかと不安におののいている多くの国民の前に、いくら社会保障という大義名分を掲げているとはいえ、財務官僚の勝利の勲章に過ぎない「増税」を差し出しても、庶民の生活実態を知らない能天気な連中のたわごととしか思えない。
  それなのに、庶民の味方を気取るマスコミ貴族ときたら、小沢一郎氏ら消費増税反対のグループを切り離して、思考停止状態の野田民主党と自民党が手を握るようにけしかけるばかりである。
  そして新聞協会のフィクサーは財務省にすり寄って(財務省管轄の国税の税務調査が入る為、税務調査は言論統制の最強の武器)新聞に軽減税率を適用させようともくろんでいるフシがある。
  もしも消費増税が強行され、特権に守られている新聞が軽減税率でのうのうとしているようであれば、それこそ不買運動でも起こして、国民の不信を思い知らせねばなるまい。 

新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo 

 国の借金が多いのは認めるとして、なぜ、その穴埋めに消費税増税なのか。なぜ、所得税や法人税をもっと上げようとしないのか。消費税増税には絶対反対の立場のジャーナリスト・斎藤貴男氏はこう言った。
  「取りやすいからですよ。まず、消費税であれば、所得税のようなゴマカシはできないので、取りっぱぐれがない。払う方にも妙な公平感があるので抵抗が少ない。それと、所得税や法人税は利益にかかる税金なのに対し、消費税は取引にかかる税制で、景気に左右されずに安定した財源を見込めるのです。財務省が消費税にこだわるのは、この先、日本経済に上がり目がないとみている証拠。だからこそ、消費税しかないのでしょう」
  景気が良くならないから消費税――とは恐ろしい発想だ。裏を返せば、増税で景気が悪化しようが、「想定済み」ということだろう。国の経済や国民がどうなろうとも、屁のカッパ。彼らにしてみれば、国庫の方が大事なのだ。
  野田が正しいのか、小沢が正しいのか。この議論はどこに立つかによって決まる。国庫が大事なのか、国民なのか。答えは言うまでもない。

   物品税廃止の裏に業界の陳情と圧力

 それでなくても消費税は悪魔の税制と呼ばれるものだ。税の重要な役割は所得の再分配なのに、消費税は弱者に重くのしかかる逆進性があるからだ。
消費に税金をかけるのであれば、ぜいたく品にだけかければいい。そうすれば、所得の再分配につながる。実際、今もたばこ税、酒税などの間接税があるし、消費税が導入される前は自動車などのぜいたく品には1030%の物品税がかけられていた。それが1988年の消費税導入と同時に廃止となって、一律課税になったのである。

  この間、一体何があったのか。そこを検証するのも大事だ。元静岡大教授(税法)で税理士の湖東京至氏はこう言う。
  「物品税で一番大きな税金をかけられていたのは自動車で、普通乗用車は23%でした。これを撤廃させて、ヨーロッパ型の付加価値税を導入するのが自動車業界の悲願だったのです。政府は業界の陳情を受け入れたわけですが、業界が付加価値税にこだわった裏にはさまざまな思惑がある。単に税金分を安く売り、購買欲を高めようという狙いのほかに、輸出の際の還付金狙いの側面もあった。自動車を輸出した場合、外国が相手だと消費税を取れないので、自動車メーカーには仕入れや下請けに払った消費税分が還付されるのです。物品税には還付がないので、業界は消費税導入を働きかけた。トヨタクラスで年間2000億円くらいの還付金があると想定されますが、消費税が10%に跳ね上がれば、還付金も倍の4000億円になる。もちろん、トヨタに限らず、輸出企業は同じ恩恵を受ける。経団連を中心に大企業が消費税に賛成するのは、それだけ有利な税制だからです」
なるほど、これでカラクリがよく分かった。だとすると、ますます、消費税引き上げなんて、賛成するわけにはいかないのだ。

  国税の法人税、地方税の法人事業税。株式会社の 7 割がビタ一文、払っていません。連結納税導入の、日本経団連加盟、超大企業も、その 66%が 1 円も納めていません。
生産に掛かった国内消費税額を、海外への商品輸出に際し還付する輸出戻し税制度の「不公正」を正すべく、取引明細書=インヴォイスの導入こそ急務と。製造・流通の中間段階で、それぞれの業者がどれだけ消費税を納付したか、証明する上で不可欠な取引明細書=インヴォイスを、先進国で日本だけ未導入。年間3 兆円に上る輸出戻し税は、最終販売業者の自動車、家電、電子機器等の超大企業にのみ還付され、日本のモノ作り産業を支える材料や部品の中小納入業者には戻ってきません。


  すでに始まっている下請けイジメの凄惨

  大企業が輸出の還付金でおいしい思いができるのは、裏で下請け、孫請けに値引きを迫り、叩きまくっているからだ。これは輸出産業に限らない。
  公正取引委員会は13日、「東京靴流通センター」を経営する靴販売大手「チヨダ」に対し、下請法違反で勧告を出した。下請け20社に支払うべき代金、総額約1200万円を不当に値引きさせた上、下請け18社に在庫品を引き取らせ、約5000万円を返還させていたという。
「ヒドイ話」だが、日本型ピラミッド社会では、よくある商慣行だ。今回はたまたま公取が乗り出したが、自動車や電機、建設、土木……と至るところで、こうした下請けイジメが日常的に行われている。


    ハゲタカ資本主義の最後の悪あがき
  「立場の弱い下請けは、発注元の大企業から『消費税分をまけろ』といわれれば、抵抗できない。応じなければ、切られてしまうからです。
  しかし、税務署には消費税分を支払わなければならない。105万円の請求書に対し、100万円しかもらえなかったのに、5万円分はきっちり税務署に取られてしまう。手元に残るのは95万円で二重の被害になるのです。こうなると、下請けは損を取り戻すために孫請けを叩く。こうやって、弱い者にどんどん、しわ寄せが行く。これが消費税の恐ろしいところで、弱者への無間地獄になる。すでに、ある外食チェーンでは下請けイジメが始まっています。デフレの進行で、どこもかしこも値引き合戦をしていますが、利益が薄くなるのは困るので、仕入れ先やパートの従業員、下請けを叩くのです。今、叩いておけば、消費税引き上げの時の予行演習になるし、今、ついてこられない下請けは切って他にかえた方がいい。こういう発想なんです。消費税が上がれば、こうしたイジメが加速することになる。だから、消費税引き上げは絶対に認めるわけにはいかないのです」(斎藤貴男氏=前出)
 
 すでに崩壊しつつある弱肉強食のハゲタカ資本主義の最後の悪あがきが、消費税引き上げみたいなものだ。そうまでして、大企業は生き残りたいのか、と言いたくなるが、増税は結局、自分の首を絞め、資本主義の破綻を加速化させることになる。
  今でも中小・零細企業はどんどん追い詰められているし、今後、増税が現実になれば、ますます、イジメが横行する。倒産件数は激増し、失業者が巷にあふれるのは必然だ。
  そこに世界恐慌が襲い掛かってくるのである。
  社会は大混乱になるのではないか。次の倒産は「大企業の番」ということになる。

 いくら消費税を上げても「焼け石に水」になる
  小沢グループが109人を集めた勉強会で講演した元財務官の榊原英資氏は「経済状況を考えれば増税ではない」と言い切った。米の著名エコノミストのアレン・サイナイ氏も「増税は経済成長を損ないGDPを押し下げるため、政府債務の対GDP比率引き下げは一層困難になる。増税では問題を解決できない」と断言した。
  財務省は二言目には政府債務の対GDP比が「先進国で最悪」とかホザくが、肝心のGDPがどんどん下がってしまえば、いくら消費税を上げたところで、比率は改善しないわけだ。
  日本のGDP2000年には510兆円あった。税収は51兆円。それが今や、470兆円に目減りし、税収は40兆円以下のありさまだ。元経企庁審議官で筑波大名誉教授の宍戸駿太郎氏は復興増税関連だけで、5年後のGDPはマイナス19兆円とはじいている。そこに消費税だから、もっと下がる。ヘタすりゃ400兆円かつかつになる。税金をいくら上げて債務を減らしても、これじゃあ、危機は存続する。税金を上げた分だけ、バカみたいなことになる。

民主主義と無縁の人たち

 小沢裁判で、裁判所から求められていた証拠の開示を拒否した検察について「民主主義とは無縁のところで育成されてきたのではないか」と書いたが、それは検察だけの話ではない。政治家にもメディアにも民主主義とは無縁の思考をする者がこの国にはいる。
  小沢一郎氏の第14回公判で、東京地裁の大善文男裁判長は石川知裕衆議院議員ら元秘書の取り調べ段階での供述調書の大半を証拠採用しなかった。そして「強力な利益誘導があり、嘘の供述に導く危険性の高い取り調べだった」、「圧力をかける取り調べは、個人的なものではなく、組織的なものだったと疑われる」と東京地検特捜部の捜査手法を批判した。これまでの裁判経過をたどれば当然と思える判断である。
  メディアは「これで小沢元代表有罪へのハードルは高くなった」とする一方、元秘書らの裁判では同じような理由で供述調書が証拠採用されなかったにも関わらず、三人の秘書全員が有罪判決を受けた事から、この判断が「無罪に直結するものではない」と解説した。
  そして自民党や公明党からは「三人の秘書が有罪判決を受けており、政治的道義的責任を免れる事は出来ない」とか「国会に対する説明責任がある」とか「民主党の党内政局が注目される」とかの反応が出ている。
  検察という行政権力が違法な捜査によって国民の代表を組織的に潰そうとした。それを司法が認めて行政権力を批判したというのがこの日の裁判である。普通の民主主義国家なら民主主義の根本に関わる問題として捉えるだろう。ところがこの国のメディアは小沢氏が有罪か無罪かにしか関心がなく、政界からは党利党略の反応しか出て来ない。それが民主主義を自称するこの国の姿である。
  この事件はそもそも政権交代のかかった選挙直前に東京地検特捜部が野党第一党の代表、すなわち次の総理候補の公設第一秘書を逮捕した事から始まった。選挙直前の政界捜査は民主主義社会が決して許してはならない事である。国民の選択に行政権力が介入する事は国民主権に対する冒涜だからである。
  この事件を見る私の出発点はそこにある。ところが政治家やメディアの反応はまるで違った。誰も民主主義に対する冒涜とは受け止めず、政界の「巨悪」とそれに切り込む「正義の検察」というお定まりの構図で捉えた。それはロッキード事件以来、国民の代表を「巨悪」と思い込ませたマインドコントロールがあるからである。
  東京地検特捜部が狙う政治家はすべて「巨悪」と国民は思い込むのである。だから特捜部が立件できなければ我々が代わって「巨悪」を追い詰めてみせると考える阿呆が出てくる。その連中は犯罪を立証できなくとも「政治的道義的責任」をあげつらい、「説明責任」を追及して政治的に追い詰める方法を考える。相手は国民の代表なのにである。
  私はアメリカ議会の議論を通して冷戦が終焉する直前からの世界の激動を見てきた。国際政治の世界は『三国志』の世界をしのぐ謀略と陰謀の世界である。そして実利を得る事に各国とも知恵の限りを尽くす。それは自国の国民生活を豊かにする事が政治に求められる最大の課題だからである。政治家に求められるのは道徳ではない。利益を実現する能力である。
  ところがわが国では政治家同士が足を引っ張り、つまらぬ事で相手の欠点をなじり、何かと言えば「道義的責任」を追及する。それが国民生活を豊かにする道だとでも思っているかのように堂々とやる。私に言わせれば民主主義を理解できない阿呆たちの所業である。国民の代表が国民の代表を貶めて国民に何の利益が与えられるのか。
  そう書いてきて、明治維新後の日本が欧米の文明に圧倒され、行政権力中心の独裁体制を構築する話を思い出した。この国に民主主義と無縁の思考が存在するのはそれから一歩も進歩していない証かもしれない。 権交代して3年目の日本政治の現状を嘆いている国民が多いかもしれないが、明治維新後の日本もめちゃくちゃだった。政権公約とも言える「尊皇攘夷」をさっさと捨てて開化路線を採る新政府に対して農民と士族の不満が渦巻いていた。明治4年、岩倉具視を代表とする使節団が欧米に旅立つ。外国との不平等条約を改正し、西洋文明を吸収するためである。
  ところがアメリカに外交であしらわれ、不平等条約の改正に失敗し、欧米のしたたかさを思い知らされる。一方で政治と道徳の分離こそが欧米政治の原理である事を知る。欧米では政治は道義に仕えるのではなく実利に奉仕するのである。自立した個人が利益を求めて競争し、個人の競争は社会の競争になり、ひいては国家間の競争となる。利益の追求が国際政治で、その戦いに勝利するため人は国家を構成する。
  先進国の現実に一行は圧倒される。木戸孝允は国民の自立なき日本では天皇の強力なリーダーシップの下に「独裁の憲法」を作るしかないと考える。その憲法によって国民の政治的開化を促すのである。一方、先進国に追いつこうとするドイツのビスマルクに感銘した大久保利通もドイツ・モデルの君主政治を考える。議会に予算の権限を与えるのではなく、行政府が国家を運営していく。議会が何を決めても政府は超然として議会を無視し政策を遂行するのである。それが近代日本のスタートとなった。
  国民主権を侵害する行政権力の介入に異を唱えず、国民生活の利益を重視するより政治家の道義的責任に重きを置き、立法府が内輪の足の引っ張りに狂奔する様は、140年前に岩倉使節団が見た欧米の政治原理とは異なるものである。しかし木戸や大久保はいずれ国民の自立を促すために憲法を作り、官僚主導の国家体制を整備しようとした。しかるにそのDNAは今も生き残り、政治と道徳を分離できないばかりでなく、国民の自立、すなわち国民主権の国家体制もいまだ未整備のままなのである。

「脳からストレスを消す技術」 有田秀穂著より

 はじめに、「ストレス」というどこか得体の知れない物に対して、私たちは今まで重大な思い違いをしていました。それは、ストレスに勝とうとしていたということです。しかし、私たちはストレスに勝とうと思ってはいけません。なぜなら、人はストレスには勝てないようにできているからです。
  そしてもう1つ、最近「ストレスフリー」という言葉をよく聞きますが、これも目指してはいけません。なぜなら、ストレスは決してなくならないからです。決して得られない物を望んでしまうと、かえってストレスは増えてしまいます。仏教をひらいたお釈迦さまは、6年という歳月をかけて、あらゆる苦行を経験し、ストレスに打ち勝とうとしました。しかし、それでもストレスに勝つことはできなかったのです。では、私たちは日々迫りくるストレスに対して、どうすればいいのでしょうか、その答えは、実は非常にシンプルなものでした。
  ストレスを消せばいいのです。確かにストレス自体は決してなくならないし、ストレスに勝つことはできません。ストレスが大きくなれば、人間の生命をも脅かすとても危険な存在になります。
  しかし、ストレス自体はなくせずとも、ストレスによって受ける「苦しみ」はいくらでも消せるのです。本当の意味で「ストレスに強い人」というのは、ストレスを打ち負かしていく人ではありません。襲い来るストレスを上手に受け流し、自分にとって適度なストレスにコントロールできる人のことなのです。

重要なのは、その方法を知っているかどうか、それだけです。
  心のストレスの正体は、「脳が神経伝達物質を通じて感じるストレス」です。
  心のストレスのことを「脳ストレス」と呼んでいます。そして私たち人間の脳には、脳ストレスをコントロールするための機能がちゃんと備わっているのです。その機能は、本来ならば人間が社会生活を送る中で、人とのコミュニケーションを大切にしながら規則正しい生活を送っていれば、自然と働くようになっていました。ところが近年、不規則な生活や、核家族化、パソコンや携帯電話の普及などによって、社会生活そのものが大きく変化してしまいました。そのため、この大切な機能がうまく働かない人が増えています。
  脳ストレスをコントロールするための機能は2つあります。1つは、ストレスを受け流す体質をつくる機能です。これは「セロトニン神経」を活性化させることで高まります。もう1つは、溜まってしまったストレスを一気に解消する機能です。これは、「涙」を流すことでスイッチがはいります。
  この2つの機能が備わっているのは、最も人間らしい脳といわれる前頭前野の内側部です。この場所は、別名「共感脳」といわれ、社会性や他者への共感を育む場所でもあります。ストレスをコントロールする機能は、そうした最も人間らしい脳に備わっているのです。
  人間はひとりでは生きていけない、社会的な生き物です。

人生の質を決定づける「3つの脳」

<前頭前野の3つの脳> 学習脳・仕事脳・共感脳
  
  私たち人間の心は、実はこうした脳の働きの現れなのです。
  人の心は一定ではありません。普段はとても思いやりのある人でも、ときにはイライラしたり、ひどく激昂したりと、そのときどきで変化します。
  こうした感情の変化は、脳の働き具合によって生じる変化なのです。3つの脳には、それぞれに特徴があり私たち人間の心模様は、そのどの部分が強く働いているかによってコロコロと変化していると言う訳です。 

「学習脳」・・・快感を操る「ドーパミン神経」(報酬を前提にして、いろいろな努力をする)   報酬が得られなかったとき(不快)⇒ストレス⇒依存症 exp,「アルコール依存症など」

「仕事脳」・・・危機管理センター「ノルアドレナリン神経」(一瞬にしていろいろな情報を分析し、  経験と照らし合わせることによって、最善の行動を選択する)

 ノルアドレナリンもドーパミンと同じく興奮物質ですか、ノルアドレナリンは言わば生命の危機や不快な状態と戦うための 脳内物質なのでドーパミンの「快」とは逆に、「怒り」や「危険に対する興奮」をもたらします。
 脳全体を「ホットな覚醒」に導く(適度な興奮状態の時)
 ノルアドレナリンによる脳の異常興奮は、うつ病をはじめ不安 神経症・パニック障害・強迫神経症・対人恐怖症などさまざま 神経疾患をもたらす。

「共感脳」・・・脳の指揮者「セロトニン神経」
 「クールな覚醒」をもたらす。
 

<夢を恐れる若者たち>
  夢や希望をどのように持つか、実はそれだけで、その後の人生が大きく変わってしまう。そもそも、夢や希望は、脳にとっては「快」であり「報酬」です。人間の脳は、本来「快」を求めるようにできています。
  それが、その「快」すら求めなく成るというのは、何かプレッシャーやブレーキがかかっているという事です。
  たとえば、未来に大きな夢を持たず、自分はフリーターでいいという若者は、自分が社会に出て得られであろう「快」という報酬よりも、その過程で被る「不快」を恐れる気持ちの方が大きくなっているといえます。

「不快」を恐れるようなってしまった原因。
   @ 誰もが認めるような「明確な報酬」がなくなっている。
   A 最初の社会となる学校で、いじめや挫折などトラウマ(心的外傷)になるようなことを経験した。
   B 子供の頃の育ち方が原因で、きちんと前頭前野が発達していない。

  まずは夢を持てなくなっている人に夢を持っていただきたいと思います。

  「快(=夢)」を求めるという自然な心に、なぜブレーキがかかっているのか、その原因を突き止めて、それを外していくことが先決である。

         今、多くの人が頑張れなくなっているのは、最もわかりやすい報酬が
     「お金」になってしまったからだと思います。

  お釈迦さまのたどり着いた「慈悲」の意味とは、我が身を使ってストレスをとことん研究したお釈迦さまは最終的に、人間はストレスには勝てないことを悟りました。
  だからこそ、座禅を組んでセロトニン神経を活性化させながら、ストレスが消えるのを待つことを説いたのです。
  お釈迦さまはもう1つ「慈悲」ということを説いています。「慈悲」という言葉は、サンスクリット語も「マイトリ―(maitrii)=慈」と「カルナ(karunaa=悲」という2つの言葉によって構成されています。お釈迦さまは「慈悲」という言葉で、「共感脳」を活性化させることで、もたらされる癒しがあることも説いておられたのです。他人のために何かをするということは、実は自分を最も幸せにする方法だったのです。昔から「情けは人のためならず」といいますが、それは単に教訓的な意味ではなく、本当に私たちの脳がそういう仕組みになっていたのです。

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【渡辺謙さん、ダボス会議スピーチ全文】

渡辺謙さん、ダボス会議でスピーチ  原子力からの転換訴える

  スイスで25日に開会した世界経済フォーラム年次総会「ダボス会議」で、俳優の渡辺謙さんがスピーチに立ち、各国から寄せられた東日本大震災の被災地支援への深い感謝と立ち上がる決意を語るとともに、原子力から再生エネルギーへの転換を訴えた。
  渡辺さんは、震災発生直後から、インターネットにメッセージなどで被災者を応援するサイト「kizuna311」を立ち上げ、現地を幾度も訪れるなど、支援活動を積極的に続けている。

  スピーチは現地時間25日午前(日本時間同日午後)に行われた。渡辺さんは「私たちの決意として、世界に届いてほしいと思います」と話している。

スピーチ全文は次の通り。

  初めまして、俳優をしております渡辺謙と申します。

  まず、昨年の大震災の折に、多くのサポート、メッセージをいただいたこと、本当にありがとうございます。皆さんからの力を私たちの勇気に変えて前に進んで行こうと思っています。
  私はさまざまな作品の「役」を通して、これまでいろんな時代を生きて来ました。日本の1000年前の貴族、500年前の武将、そして数々の侍た ち。さらには近代の軍人や一般の町人たちも。その時代にはその時代の価値観があり、人々の生き方も変化してきました。役を作るために日本の歴史を学ぶこと で、さまざまなことを知りました。ただ、時にはインカ帝国の最後の皇帝アタワルパと言う役もありましたが…。
  その中で、私がもっとも好きな時代が明治です。19世紀末の日本。そう、映画「ラストサムライ」の時代です。260年という長きにわたって国を閉 じ、外国との接触を避けて来た日本が、国を開いたころの話です。そのころの日本は貧しかった。封建主義が人々を支配し、民主主義などというものは皆目存在 しませんでした。人々は圧政や貧困に苦しみ生きていた。私は教科書でそう教わりました。
  しかし、当時日本を訪れた外国の宣教師たちが書いた文章にはこう書いてあります。人々はすべからく貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。し かし皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ちあふれた国は見たことがないと。
  それから日本にはさまざまなことが起こりました。長い戦争の果てに、荒れ果てた焦土から新しい日本を築く時代に移りました。

  私は「戦後はもう終わった」と叫ばれていたころ、1959年に農村で、教師の次男坊として産まれました。まだ蒸気機関車が走り、学校の後は山や川 で遊ぶ暮らしでした。冬は雪に閉じ込められ、決して豊かな暮らしではなかった気がします。しかし私が俳優と言う仕事を始めたころから、今までの三十年あま り、社会は激変しました。携帯電話、インターネット、本当に子供のころのSF小説のような暮らしが当たり前のようにできるようになりました。物質的な豊か さは飽和状態になって来ました。文明は僕たちの想像をも超えてしまったのです。そして映画は飛び出すようにもなってしまったのです。
  そんな時代に、私たちは大地震を経験したのです。それまで美しく多くの幸を恵んでくれた海は、多くの命を飲み込み、生活のすべてを流し去ってしま いました。電気は途絶え、携帯電話やインターネットもつながらず、人は行き場を失いました。そこに何が残っていたか。何も持たない人間でした。しかし人が 人を救い、支え、寄り添う行為がありました。それはどんな世代や職業や地位の違いも必要なかったのです。それは私たちが持っていた「絆」という文化だった のです。
  「絆」、漢字では半分の糸と書きます。半分の糸がどこかの誰かとつながっているという意味です。困っている人がいれば助ける。おなかがすいている 人がいれば分け合う。人として当たり前の行為です。そこにはそれまでの歴史や国境すら存在しませんでした。多くの外国から支援者がやって来てくれました。 絆は世界ともつながっていたのです。人と人が運命的で強く、でもさりげなくつながって行く「絆」は、すべてが流されてしまった荒野に残された光だったので す。

  いま日本は、少しずつ震災や津波の傷を癒やし、その「絆」を頼りに前進しようともがいています。
  国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし 度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物 質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に 頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。
  私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今まで と違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今や らなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの 「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。
―――――(転載終了)―――――

  お読みいただいて分かる通り、渡辺謙氏は脱原発という言葉さえ用いずに、極めて素朴にかつ控えめに、再生エネルギーへの転換を呼びかけ新たな幸福創造への価値観を模索している。この文脈には、おどろおどろしい政治的なアジテーションはまったくなく、彼はあくまでも全人類に共通する素朴な立場に立って、新しい日本の可能性を訴えている。私は素晴らしい文明論の序章的提示としてこのメッセージを高く評価する。日本が誇りを持って世界中に配信すべき内容になっていると思う。ところが、肝心な日本の大手メディアが再生エネルギーへの模索と転換の部分を軒並み意を合わせて隠蔽したのである。
  大手メディアのこの報道様態に見える真実は、原子力村、原子力マフィアが、脱原子力エネルギーについて徹底的に情報統制していることにある。福島第一原発の炉心事故は、日本人の遺伝子を傷つけ、恒久的に住めない土地を生み、太平洋を汚染し、大気圏を汚染し、汚染された農産物、海産物は偽装されて全国に行き渡りつつある。いまだ収束にはほど遠い状況と言えよう。加えて、他の原発が再稼働すれば、同様な事故の危険がつきものであり、他でもう一度同様の事態が起きれば、日本は再生不能な壊滅状況に至る。大手メディアを操る日本のエスタブリッシュメントは、原発プラントの恐ろしい実態を隠し通したまま、全国の原発をかつてのように再稼働しようとしているとしか思えない。そのために代替エネルギーの模索や可能性を芽の内に潰そうとしているのである。もちろん、これには電通などを通して、大手メディアが全面的な協力体制にある。
  大手メディアのこの偏頗(へんぱ)な報道は、世界中に日本マスメディアの極度な民度の低さを露呈し、大恥をかかせている。これは、例の311原発事故以降、東電原子力保安院が、事故に関する逐次発表を聴きに来た内外メディアを前にして、鉄面皮な顔をして誤魔化しに徹したこととそっくりである。海外ジャーナリストたちは、その嘘と隠蔽のあまりの露骨さに匙を投げてしまい、しまいには記者会見会場に記者の姿がほとんど見えなくなり閑古鳥が鳴いていたことを思い出す。彼らの嘘と隠蔽体質が、適正な避難体制を阻み、どれほど出さなくてもよい被爆者を生み、国民や郷土を不幸に追いやったか、察して余りある。
  日本のエスタブリッシュメントや大手メディアの上層にへばりついている人間は、現代日本人が江戸時代封建体制のように、「よらしむべし 知らしむべからず」で押し通せると思っている。海外往来が盛んになり、特にネットの発達がクロスオーバーに情報の行き来を容易にした今日、日本人だけには知らせないで置こうとすることが、いかに馬鹿げているか連中は理解していないようだ。対米従属既得権益複合体の一角を占めるマスメディアは、必死になって日本国民へ伝えるべき大事な情報を堰き止めるが、そのことが世界中から笑われているのである。アメリカは自国に不都合な情報は絶対に開示しないが、それ以外の情報はオープンである。日本は情報開示の分野でもこれにはるかに後れを取っている。
  ソビエト社会主義共和国連邦が体制崩壊を起こした時、ゴルバチョフ大統領が登場していたが、彼がペレストロイカ(改革)を執行した時、その最大の政策がグラスノチ(情報公開)だった。この当時、日本人は自由主義陣営の先輩として、高みから、「ああ、可哀そうに!ロシア人は今頃になってやっとこさ情報開示へ動いたか」などと思っていたが、当時の日本人はソ連が秘密のカーテンに囲われていて、日本は情報的にすがすがしい自由の空気にあると思い込んでいた。ところが、その日本が実は情報鎖国国家の先進国だった。「閉ざされた言語空間」に気付かずに、日本国民はマスメディアが流す偏向報道に流されたまま、アメリカや既得権益複合体の思うままに国政を誘導されていたのである。今の日本は切実にグラスノチが必要なのである。
  311以降の政府発表やマスメディアの報道様態を直に見て、国民は日本の権力構造の実相が見え始めている。メディアもいつまでも国民を騙しおおせないことに気付くべきである。渡辺謙氏のダボス・メッセージには復興の絆と再生エネルギーという二つの要素が語られたが、マスメディアは再生エネルギーへの言及を肩を並べて隠蔽した。この事実に、日本マスメディアの究極的な悪質さと凋落が表れている。従って、この一件は決して看過してはいけないのであり、日本報道業界の断末魔の状況を指していると考えるべ きである。     2012213 ()

かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみてもそれもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
《旧約聖書の伝道の書(新共同訳ではコヘレトの言葉)18節〜10節》

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   3月号 編集後期

  私事で恐縮ですが、年の初めに35年ぶりに鬼の霍乱とでも言うべきか、体調不良で入院を余儀なくされ、新年総会を欠席し皆様にご迷惑をお掛けしたことをお詫び致します。話は入院絡みになりますが、人は病気になって初めて、病人の辛さや大変さを本当の意味で理解出来るのだなと実感しました。
  また、健康で毎日生活出来ることの有難さを身をもって感じました。この気持ちを忘れることなく、今後の生活・治療に活かして行きたいものであります。
  今回も会長の多岐に亘る情報を載せていますが、会員の意見・情報を待っています。
  電話・FAX・メールなんでも結構ですので・・・連絡を待つってます!  M.M

我々日本人は北朝鮮のテレビ放送を見て鼻で笑って小馬鹿にしていますが、我々自身がそんな状態に置かれているのが現実です。最近になって冤罪のケースがやたらと目に付きます。これは氷山の一角に過ぎないのではと思います。常に真実を見抜ける目を養い物事を多面的に見れる自分を作りあげたい。
  これは我々の仕事に役立つのではないでしょうか。今回はどうも政治・裁判・経済等の話が多くなってしまいました。今の日本がワヤクチャな状態でどっちの方向に向かって行くのか検討もつかない中でせめて公平・公正な日本の社会で有りたいと思っています。夢ゆめ巧言令色、に惑わせられないで、世の中そんなに美味しい話は舞い込んではきません。こつこつ一人づつ患者様をこなして行くしかありません。  ST