本文へジャンプ2013年 6月号

編集後期…読む

今まで政治的な話を掲げていましたが、最近は面白くていい文章がないので、いろいろ探していました。結構いけてる文章にであったのでこれからは、その文章を掲載して行きたいと思います。追々作者の話も出て来ると思います。

少し斜に構えた捻くれ者、自分は大好きですが。

キライな日本語―養生なき「健康」


「健康」というこの言葉には日本語になじまない何かがある。日本語が日本の暮らしを綴る言葉であるという考えを以ってすれば、「健康」と日本人の間にそぐわぬ何かがありそうだ。
健康茶、健康蕎麦、健康味噌、何でもいいがおよそ食品に「健康」の文字がくっついただけでマズそうになる。食べ物に限らず「健康ランド」「健康ビジネス」「健康ショップ」と、健康の次にカタカナ語がつづくとチャチになる。まことに不可解なことばだ。

まずは語原。
易経に出典をもつ「健体康心」、健(すこ)やかな体と康(やす)らかな心を意味する。もちろん、やまとことばに縁もゆかりもない外来語、いや、

外国語だ。
今から三千年以上も前、孔子以前から存在した「易経」が明確に現れたのは漢の武帝のころであった。後の後漢の時代に詩、書、礼、春秋、など並び「五経」と呼ばれ儒教の基本経典となった。

我が日本には531年(継体帝)に百済の五経博士がそれを伝えたとされる。しかし「健体康心」の一節はとくに目を注がれることもなく、日本語として息を吹き返すまで千年以上待つこととなる。

「健康」にあたる古語はない。一番近いのが「まめ」だが、かなり新しい。遠い先祖たちは病気や禍のないことを「つつがなし」といったが健康とは違う。「健康」は日本でまだ日が浅いのだろうか。
古語「むくろ」は「ム(霊、身)」と 「クロ(殻)」からなり、「からだ」を意味する。
やまとことば(古代日本語)の語彙はすべて二音節の単純な動詞からはじまる。その動詞に語尾が一つ、時には複数くっついて別の動詞に、または形容詞に、名詞に変わって語彙が増えてゆく。この特徴は「膠着語」と分類され、朝鮮語、フィンランド語、テュルク(トルコ)語などが仲間だ。

「クル(繰る)」から「クルム(包む)」が生まれ、胡桃、栗、そして殻、蔵、倉がさらに生まれた。殻も蔵も何かを包み込む容器として考えられる。では「ムクロ(躯)」は何を包んでいたか、それは「タマ(霊)」に違いない。

「玉の緒よ 絶えなば絶えね 永らえば 忍ぶることのよはりもぞする」

霊(玉)をむくろに繋ぎとめているものを「玉の緒」といい、それが絶たれると霊がスルリと抜けてしまう。死を意味する。霊の抜けた体を「ナキガラ(亡骸)」といった。日本の祖先は人の体を霊の入れ物と捉えていたことが判る。

死は「穢れ」と恐れられた。病や事故、天変地異そして犯罪も「穢れ」に含まれる。「汚れ」との違いは「洗い」流せないところにあり、「忌み(祓い)」を行うことが求められた。夏のはじめに菖蒲の葉で屋根を葺いた小屋に大事な働き手である女たちを集め、日本人の恐れた季節、夏にそなえる「五月忌み」を行った。(この風習は紆余曲折あって「こどもの日」となった。)菖蒲の葉の持つ薬効を穢れを祓うものと解していたのだ。
わが国の医療の原点はここだった。

「穢れ」は「ケ(褻)」が「カレ(枯れ)」た状態である。ケとはハレを祝祭などの非日常としたときそれに対する日常をいう。つまり日常が枯れ豊かさを失ったさまをさす。病人や怪我人、災難を被った者、飢えた者、家族を失った者は日常を欠き心を乱し、躯が傷み、「穢れ」が進み死に至る。心と体をそれぞれ別のものと捉えながらも互いに強く影響を及ぼしていることをよく知っていた。。外的あるいは内的な要因が体調を崩す、そしてそれが進行し命を落とすことはかなり昔から認められていたことになる。しかしそれは今ではとうに忘れられ「穢れ」は差別を仄めかす言葉と化した。

そして人と国の間にも同じ絆を見出していた。薬効のある植物、塩や酒で患部を清め、罪人を咎め、地神海神を祀って赦しを請い、死者を墓に葬り「穢れ」を遠ざけた。政治を意味する「まつりごと」は「祀りごと」であった。

心が痛むと体が病む。その心を痛めるものとは禍々しい出来事すなわち「穢れ」である。そして、その穢れの中には「病」も存在する。「病」のみならず悪いことは輪を描いて立ち戻る。すべては循環する。

古代から中世へと時代が降るにつけ、世の中を握る貴人と呼ばれた人々の心は権力欲にとり憑かれ人を欺き陥れることに明け暮れた。その罪悪感にと末法の世に対する恐れが重なって生まれたものが「悪霊」である。天災や疫病、国の乱れの原因を「たたり」によるものとした。有名なのは菅原道真、讒言(ザンゲン)のすえ大宰府に配流され失意のうちに世を去るが、都の人々は寄せ来る災禍を道真の祟りと恐れ、神として祀ることでこれを鎮めんとした。そのほかにも仏教界は「鎮護国家」を名目にここぞとばかり寄進を募り寺院建立と勢力の拡大を図った。相讒次ぐ遷都、造営、戦乱に国は疲弊し、病み、さらなる国の乱れを引き起こした。

鎌倉時代以降、世は貴族から侍の手に移った。

「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、 我こそは…」

名乗りを上げて真っ向から戦うことを潔しとし、自ら太刀を振り、常に死と背中合わせに生きる武士が国の実権を握るようになると人心はようやく悪霊から開放された。また、家、国、民を守るために命をかけた武士たちは相次ぐ戦いに臨む強さを得るために粗食を旨とし体と心の鍛錬を怠らなかった。このような世の中でも百姓衆の間で猿楽や田楽が興りそれが能楽の礎となった事は、この国の底辺にいた人々でさえ食うや食わず以上の暮らしをしていたのを物語る。

そして戦乱は鎮まり、泰平の世が訪れた。執政者のみならず市井の人々までもが歴史の表舞台に立つ時代、江戸時代が幕を開けた。

江戸の中頃、朱子学者の貝原益軒によって体と心を養う術を綴った「養生訓」が著された。これは儒教の精神に基づいてはいるが漢文の書きくだしのような難解なものではない。庶民にもわかり実践できるようにと易しい文体で書かれていた。
「天寿というものは本来長く、人は気を損なうことで自ら命を縮める」
「内敵(欲と感情)、外敵(風・寒・暑・湿)を畏るべし」
「およそ人の楽しむべきこと三あり、善き行いを楽しみ、病なきを楽しみ、長寿を楽しむべし、富貴などはその内にあらず」

欲と感情の虜になって「気」をすり減らすと風・寒・暑・湿という外的要因によって体の機能が破られる。これを病という。「やまいは気から」の本当の意味はこれである。もともと「気」とは中国気孔術でいう血や体液、内分泌の通り道、さらには天地との関係を意味する。今の日本語の「気のせい」「気にするな」などにみられる「気」は漢語外来語を日本流に柔らかく解釈したものであるが、本来の意味を失ったわけではなく我々が見落としてもはや気づかなくなっているだけである。
時間のゆるす方はこの「養生訓」をぜひ読んでいただきたい。原文でもじゅうぶん理解できる傑著である。

幕末、蘭学者たちの間では「強壮」「壮健」「康健」などの言葉が使われだした。そして「健康」が日本語としてはじめて使われたのは高野長英の著した「漢洋内景説」(1836年)、続いて緒方洪庵による「病学通論」(1849年)であるという。洪庵のほうがより積極的にこの語を使用したことが著書から伺われることから「健康」の親は洪庵であろうという見方がある(北澤一利『「健康」の日本史』 平凡社新書)。
緒方洪庵は漢学をも修め、造語にも秀でた才をもっていた。。易経などにも通じていたと想像できる。

一般の日本人に「健康」なるものを広く知らしめたのは洪庵の門人、福沢諭吉であった。英語healthの対訳に「健康」を適用、「学問のすゝめ」をはじめとする著書のなかでたびたび使用し、国民に「健康」を啓蒙した。
しかし健体康心を語原にもつ割にはあくまで生理的、物理的な正常さを説くにとどまり「心」の方はあまりにもおろそかにされた。日本人の体格を西洋人のそれと比較し遅れていると見なし、追いつき追い越さんと強壮を謳い、一方では兵力と労働力を強化するために子供を生み増やす事を奨励した。 

北澤氏は福沢の「健康」に対する理念が富国強兵政策の道具にされ残念だ、と嘆いているが、逆である。たしかに国民を鼓舞して世論を新政府の意向にそぐわせたのは明六社、そして福沢諭吉らであった。が、新政府の政策を西欧列強に追随せしめたのもまた明六社を筆頭とする啓蒙家たちであったことを忘れてはならない。この売国行為の末、先祖の教えを軽んじ、あめつちとの関わりを絶った日本は内側から綻び、病んでいった。

いま、戦力はあまつさえ労働力もあまり必要でなくなった。機械が働くか、輸入する。すると「健康」は政府の手を離れ市場の道具と化した。不要で過剰な医療によって大金が動きそのぶん体は痛めつけられ、抗菌・滅菌商法はさらなる疾患の元となった。そして「健康商品」「健康食品」にすがるが如く投資する。わざわざ「心の健康」なる言い回しをせねばならないのは「健康」がそもそも物質であることを意味している。

「健康」などはまさにカネで売買するものでしかない。国をも売り買いする輩が生み出した言葉にふさわしい。

「健康」は商売になっても養生ビジネスなどは成立しないのだ。養生とともに本当に必要な医療とは、感染症から弱者を守り、難産から母子を救い、怪我人に迅速な手当てを施すことだ。みなが「養生訓」を実践したのでは今の医療の殆んどは要らなくなってしまう。そして医者の多くが路頭に迷うことになる。そんな世の中が来ることを願う。

人ひとりがつつがなく楽しく生きるためには、その入れ物である国が病んでいてはならない。同じく、けがれなき国をつくるにはそのあるじたる一人ひとりが善い生き方をせねばならない。つつがない、けがれない暮らしを喜び、そうあるために努めるのが国をつくることに繋がる。殆どの病は備えを怠り欲に負けた自らが引き起こす。国難もしかり、国民が行いを正すことで救うことができる。

もし、息子たちが医者になりたいなどと言い出したら、
「食べていかれないから よせ」と諭すつもりである。

(寄稿 政治を話そう)壊れゆく日本という国 
神戸女学院大学名誉教授・内田樹
       朝日新聞 201358


 日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。

 それは、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。

 国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。

 この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることをやめて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。

 ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。

 トヨタ自動車は先般、国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないと報じられた。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからであろう。外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。

 その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。

    ■     ■

 大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。

 この「恫喝(どうかつ)」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか? 自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか? 雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか? 絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。

 ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。

 大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。

    ■     ■

 繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのはやめて欲しいと思う。

 だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。

 だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗(しつよう)に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小(わいしょう)化される。ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。日本のメディアがこの詭弁(きべん)を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕(きょうがく)する。

    ■     ■

 もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗(こと)するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進(こうしん)は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。

 国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。そのために国民は低賃金を受け容(い)れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「のませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽(あお)りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民にのみ込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。

 国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭(いと)わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。

 現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」として、これからもアメリカの超富裕層からつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。

 今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵(かじ)を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。

 よいニュースを伝えるのを忘れていた。この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。

 うちだたつる 50年生まれ。専門はフランス現代思想。憲法9条から格差、温暖化まで論じる。合気道七段の武道家。「街場の文体論」など著書多数。

データで読み解く長野県民長寿日本一の理由

<長寿日本一の理由は貧乏? 男80.88歳 女87.18歳>

 都道府県別「平均寿命」(2010年)で、長野県が男女とも長寿日本一に輝いた。「減塩運動のたまもの」「温泉が豊富」「いや、昆虫食が体にいいのかも」と周囲はかまびすしいが、本当のところ、長野県民はなぜ長生きなのか?

 

<病院依存度は全国最低レベル>

 世界一長生きの日本人の中でも、とくに長野県民は突出している。都道府県別の「平均寿命」(下記表)で、長野県は男性80.88歳、女性87.18歳で共に全国トップ。一方、最下位はこれも男女そろって青森県だ。青森は喫煙率と飲酒習慣割合が1位、1日の歩数量は46位とワーストになる要素がテンコ盛りだ。

 では、長野県民はどんな理由で長生きなのか。

「そばを含む穀物類が体に良い可能性はあります。また、約30年前から県民減塩運動を展開中で、その効果が出ているのかもしれません」(長野県庁・健康長寿課)

 1965年の県民の平均寿命は、男性9位、女性26位と平凡。それが減塩運動を始めて急激に寿命を延ばしている。だが、よく調べてみると、同県の塩分摂取量は男性が全国6位、女性8位と今も多め。当然、脳卒中の死亡率は全国平均を上回っている。塩分を減らせば長生きするという根拠と矛盾するのだ。

 では、これはどうか。長野県民の野菜摂取量は全国1位(1379グラム)、高齢者就業率も43.7%(全国平均32.2%)でトップ。日帰り温泉(729軒)、味噌消費量(1世帯年間11.9キロ)も1位だ。逆に年間雨日数(30.6日)、降雨量(932ミリ)は全国一少ない。

晴れが多ければ気分的にもいいはずだ。

 だが、長野で特筆すべきは、実は老人医療費の少なさにある。75歳以上の1人当たり医療費は、長く全国最低水準をキープ。10年度も77560円で下から4番目と、最高の福岡1146623円に比べて37万円も安かった。長野県民はとにかく病院に行かない。

「というか、病院が少な過ぎて行けないのです。県内にある病院はわずか116軒。療養病床数は100人当たり0.18床で全国41位です。昔はこうではなかったが10年前に地方債の残高が16000億円に達し、借金の割合は全国最悪。財政再建団体の一歩手前と言われました。新幹線、高速道路、冬季五輪と県民の望むまま借金し、病院まで手が回らなくなったのです」(ジャーナリスト・中森勇人氏)

 ところが、何が幸いするか分からない。

「長野県民の在宅死亡率は14.9%で全国1位。余計な延命治療を最もやらない県です。抗がん剤治療が死期を早めるという説も出ているし、医療体制が貧弱な方が個人で予防する人が増える。東北地方で唯一長寿の山形県も、療養病床数は43位です。逆に病床が充実している1位の高知、2位の山口、3位の鹿児島は、長寿ではありません」(中森勇人氏)

 病院に行かない方が長生きするのだ。長野県民の長寿の理由は、貧乏で病院が造れないからだった?・・・・・・・・・

                       松本満雄

いのちのことば 平成25417(水曜日) 山陽新聞朝刊掲載より転写 


 鍼灸は被災者の心と体を同時にケアする (関 隆志)

東北大学大学院医学系研究科先進漢方治療医学講座講師の関隆志氏の言葉。

大学病院で伝統医学の鍼灸を臨床に用いてきた。現代医学の手が及びにくい難病の症例に対して、鍼灸が症状軽減などに役立つケースが少なくないことを実感している。

東日本大震災直後から、津波被災地で漢方薬と鍼灸を用いながらボランティアに取り組んだ。家も財産も家族も失った人たちは、身体症状ばかりでなく、悲しみ、怒り、喪失感など多くの精神症状を呈していた。

検査機器を用いない伝統医学は、自覚症状の訴えに十分耳を傾ける必要があるが、そのことが被災者へのカウンセリング効果を持つ。「眠れない」と訴える人も、睡眠薬などの薬剤は飲もうとしないので、安眠を誘う鍼灸施療が有用になる。

「自分でこのツボを押すとよく眠れますよ」とセルフケアの手段も伝えることができる。肌と肌がじかに触れ合う治療を初めて経験した人たちから、「いいものですねえ」との言葉も聞くことができた。伝統医学の良さは体だけでなく心も同時にケアできること。

「奥尻島津波の経験などから、被災地ではこの先10年は心にアプローチできる医療が必要。本当の闘いはこれからです」

 (林義人・医療ジャーナリスト)

鍼灸おかやまメールマガジンからお借りしました。

久保田市長を交えての懇親会2時間以上おられました。

4月29日グランドソフトボール大会での上空。珍しい情景でした。

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   編集後期

第2回きらら杯グランドソフトボール・スポーツケアも皆様の協力により無事終了致しました。

山々を見れば新緑が鮮やかな季節となり外出が楽しみな時期になって来ましたが、最近ではPM2.5と言う厄介な微小粒子状物質まで飛来するようになって外出もままなりません。今回、会長が健康について色々な情報を載せてくださいましたが、我々鍼灸師も医療に携わる人間の一人として、現在の医療、特に日本の医療がアロパシー(対症療法)に偏重し過ぎていることが、問題の根底にあるのではないかと考えるのは私だけでしょうか?やはり各人の意識改革・正しい情報を得る力・自分で身を守る国を守る・自然を守り共存し自立する事に尽きるのではないでしょうか、皆様の意見を聞かせて下さい。待っています!  M・M 

新年度が始まり総会・行事がめじろ押しに控えています。町内の自治会長・ふれあい推進委員・人権相談委員・子ども委員会・共育懇話会等それぞれ活動・総会があります。他業種の人たちの集まりも又楽しいものです。            S・T